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浦賀&久里浜・開国の町歩き(2) ~東林寺・中島三郎助墓所~
※浦賀地区の全体地図はこちらを参照してくださいね
浦賀ドックの脇をてくてく歩いていくと、お寺や神社がたくさんある地区に到着します。
その入口のガソリンスタンドでチビッコがトイレを借りました。すると、トイレの脇に看板が。
◆干鰯問屋(ほしかどんや)◆所在地:横須賀市東浦賀町2-8付近(出光GS脇) 交通:京浜急行「浦賀」駅徒歩10分
干鰯、とは読んで字の如く「干した鰯」。水揚げした鰯を油抜きをして干したもので、綿花やアブラナ等を栽培するのに適した肥料だったそうです。主に関西方面に出荷するための問屋が軒を連ねていたのが東浦賀だったそうです。最盛期には30件ほどあったようです。
幕府が下田から浦賀に奉行所を移転する際、干鰯問屋の生活権が侵害される、と東浦賀地区を中心に反対運動があり、そのため奉行所は対岸の西浦賀に設置されたそうです。
また、このガソリンスタンドの手前の道を右に入ると、「徳田屋跡」があります。「徳田屋」は浦賀の旅籠の草分け的存在で、吉田松陰と佐久間象山がここでペリー来航時に対応策を協議したのだそうです。

◆東林寺◆ 所在地:横須賀市東浦賀町2-29  交通:京浜急行「浦賀」駅徒歩15分
東浦賀町2丁目は小さな区画の中にお寺、神社がたくさんあります。何でも室町時代からある寺社が多いそうです。
観音崎通り(バス通り)から、海側に曲がる細い道(車1台が通れるくらい)に入るとこの地区なのですが、最初は曲がる場所が分からずにしばらくバス通り(上り坂)を歩いてしまいました・・・↑の出光GSを過ぎたらすぐ右、ですので徒歩で行かれる場合、上り坂にさしかかったら行き過ぎだと思って下さい。

つきあたりまで進むと右手が東西浦賀を結ぶ渡し舟「浦賀の渡し」渡船場。左に曲がってすぐ左手に東林寺があります。
こちらのお寺は浄土宗鎮西派。浦賀山立像院東林寺、といい中島三郎助と長男・恒太郎、次男・英次郎の墓所があるところです。
山門です。
東林寺山門

山の中腹にあたる場所に建立されているので、階段を上って本堂にたどり着きます。
本堂左手が墓地、墓地入口に分かりやすい案内板が。
墓所内案内板

墓所にも案内板がありました。(墓石の写真は撮っていません)
中島三郎助案内板


中島三郎助について。(長いです)
・生い立ちと若い頃
文政4年(1821)、浦賀生まれ。父親は浦賀奉行所与力・清司永豊で、三郎助も14才になると、与力見習として奉行所に出仕します。
天保8年(1837)、米国商船モリソン号打払い事件に関わるなど、特に海防、砲術に関しては若い頃から様々な知識・経験を身につけたそうです。ちなみに・・・剣術も修めていたのですが、流派は天然理心流です。
・黒船来航!
嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊が来航した折、通詞とともに「応接掛与力」として最初にサスケハナ号に乗り込み応対します。
もっと上の者を出せ、というアメリカ側に対し、「自分は浦賀奉行所の副奉行、明日は奉行が来る」とブラフを入れた、また搭載されている大砲の寸法を測り、船や大砲の構造について根掘り葉掘り聞いてメモした、とのエピソードが残っています。
・桂さんと友達&海軍伝習所へ
安政2年(1855)、吉田松陰の紹介で造船術と洋式軍隊について教授を請いに来た長州藩士・桂小五郎を同士として迎え入れ、納屋を改築した部屋に住まわせたそうです。
翌月、三郎助は長崎の海軍伝習所に出向することが決まり、安政5年(1858)年まで海軍伝習所で造船、操船、蒸気機関等について幅広く学びます。※「武揚伝」では、この時釜さんと三郎助が仲良くしている様子が描かれていますネ
・開陽丸に乗り込む
浦賀に戻った後は築地軍艦操練所教授方を拝命、その後軍艦操練所頭取となりましたが、体調もすぐれなかったようで、与力職を長男に番代わりし隠居身分となります。しかし慶応3年(1867)、幕府がオランダに発注していた当時最新鋭の洋式軍艦・ 開陽丸が江戸に回航されると軍艦出役として開陽丸に乗り込みます。
慶応4年(1868)8月、三郎助は新政府による徳川家領地没収をよしとしない海軍副総裁・榎本武揚ら旧幕臣とともに江戸品川沖を脱走、一路北上します。蝦夷地では箱館奉行並の役職についています。
・箱館で散華
明治2年(1869)5月11日の箱館総攻撃で既に箱館市中は新政府軍に占領され、弁天台場も兵糧、水、弾薬ともに欠乏状態であったこともあり降伏勧告を受け入れます。もはや箱館政府軍の拠点は千代ヶ岡陣屋と五稜郭のみ、の状況下、三郎助は千代ヶ岡陣屋に対する降伏勧告を拒否、さらに五稜郭への退避勧告も受け入れず、徹底抗戦を貫きます。
そして同年5月16日、未明に始まった千代ヶ岡陣屋への砲撃はやがて白兵戦となり、三郎助は長男恒太郎(22歳)・次男英次郎(19歳)と共に討死しました。享年49。中島父子をしのんで陣屋周辺一帯は現在「中島町」と名づけられています。
・お仕事以外の三郎助
文人として知られ、漢詩や俳諧、和歌に通じた人でもあります。俳号は「木鶏(もっけい)」。五稜郭でも確か年末と3月に句会が催されていましたよね。(豊玉先生も出席していたはず)
中島お父さんの辞世です。
ほととぎすわれも血を吐く思い哉
われもまた死士と呼ばれん白牡丹


よく歳さんが最後の武士と言われていますが、私は最後の武士、は中島三郎助だと思います。最後まで幕臣として生きることを貫いた彼は、まさに「ラストサムライ」なのではないかと思います。
そんなことを思いながら、3人のお墓に手を合わせました。

次は何と「勝先生が断食していたらしい」神社に行ってみます。
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2006/05/06(Sat) | 中島三郎助史跡巡りin浦賀 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
コメント
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>まきこさん
浦賀レポ、まだ続きますのでお楽しみに♪泣きポイント、まだありますよ。
抜けてる時期、ですが、意外に「肝心な場所の近く」に住んでいるとき、には抜けていない気がします。まきこさん、函館在住の現在、は抜けてませんよね?私も日野の近くに住んでいる今、は抜けてませんから。
京都はまた行けばいいや。と思っています。私は多摩時代&流山以降の歳さんが好きなので。
by: ままこっち * 2006/05/09 22:16 * URL [ 編集] | page top↑
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ままこっちさん、おつかれさまです。
詳細レポをありがとうございました!(地図を載せてくださったのも、感謝です~。)
涙ながらに読ませていただきました。
いずれ、必ず行きたいと思っています。

「抜けてる時期」って、どなたにもあるんですね~!
自分だけじゃなかったと知って、安心しました。
私も、「どうしてあの頃、あそこへ行かなかったんだろう!」と悔やむ場所が、いくつもあります…無念~!
by: まきこ * 2006/05/07 12:26 * URL [ 編集] | page top↑
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>julesさん
「武揚伝」の中島お父さんに涙したjulesさんなら、浦賀はきっと泣いちゃう町、だと思います。どこまでも三郎助な町でした・・・(私も涙)是非行ってみて下さい。
抜けてる時期ってありますね。私も社会人になってから大阪に2年住んでましたが、その時はやはり抜けていた、ので京都は営業以外ではあまり行きませんでした(買い物くらい)。今になって「く~っ!」と悔やんでおりまする。
by: ままこっち * 2006/05/07 11:29 * URL [ 編集] | page top↑
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ままこっちさん
な、な、なつかすい~!!私は10数年前、ですが、久里浜と横須賀に住んでいたので、
地名を聞くだけでも懐かしいです~。ただ、そのときは「新選組」がスッポリ、抜けていた時期だったので、この辺は行ってないんですよね。今更ながら、行きたいと思いました!
by: jules * 2006/05/07 09:54 * URL [ 編集] | page top↑
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