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チーム箱館追跡ツアー #12 ~弥生坂、姿見坂付近
※全体地図はこちらを参照してください。地図上の11番が五稜郭公園です。函館の中心地より北西に位置しています。
※写真は全てクリックすると拡大します。

函館は坂の街。函館山に向かって坂がいくつもあります。
そのうちのひとつ、弥生坂。こちらにも史跡がたくさんあります。

◆弥生小学校(称名寺跡)◆ 所在地:函館市弥生町4-16  交通:電停「大町」徒歩5~7分
箱館新選組の屯所だった称名寺。現在は船見町にありますが、箱館戦争当時は現在の弥生小学校のあたりにありました。
このあたりは坂の途中に浄玄寺、称名寺、実行寺があり「寺町」と呼ばれていたそうですが、その後明治12年(1879)の大火で焼失し、現在の場所に移転しています。

こちらが弥生小学校。
弥生小学校

弥生小学校の歴史は古く、明治15年(1882)年に創立。現在の建物は昭和13年(1938)竣工だそうです。明治40年(1907年)にはあの、石川啄木が代用教員として教鞭をとっていたとな!スゴイスゴイ!!

坂を写してみました。
弥生坂

かなり急勾配です。冬場は坂道発進が大変そう・・・
チビッコはクルマを降りて颯爽と坂を上りますが、私はクルマで行けるところまで行きました(爆)

さらに上に登ると、こんな案内板が。
弥生坂上の案内板

ここから急に道が細くなります。クルマは1台通るのがやっと。
ダンナはちょっと手前でクルマを停めて待機。チビッコと2人でさらに上ります。

◆咬菜園跡◆ 所在地:函館市船見町3-8 交通:電停「大町」徒歩8~10分
道が細くなってすぐ左手にあります。
現在の咬菜園跡

咬菜園跡案内板

こちらは地元の名主・堺屋新三郎が作った庵です。たくさんの花や樹木が植えられていて、咲き乱れる花々は箱館市民の目を楽しませていたそうです。「咬菜園」の名は、五稜郭を設計した武田先生(斐三郎)が名付けたとのこと。
明治2年(1869)3月14日、新政府軍の軍艦が追討令に従い品川出港との情報を聞いた釜さんは、幹部6人と今宵が最後と飲み明かしたそうです。
6人って誰?と思ったんですが、どうやら釜さんのほかには中島三郎助、川上録四郎、伊庭八郎、榎本対馬、高松凌雲はいたとの説をどこかで見かけました(出典失念・・・)。
もう1人は誰??歳さん??「叩かれて・・・」の辞世はこの時詠まれたのじゃないんですかね?
中島お父さんと川上さんはかなりの俳人で、年末の句会にも参加していたし。その点からすれば歳さんが呼ばれていてもおかしくはない。
それとも「釜さん含めて6人」の間違いなのか。
誰か教えてーーーー!!!

ちなみに、中島お父さんの辞世
ほととぎす われも血を吐く思い哉
われもまた 死土で呼ばれん白牡丹


は、この時詠まれたといわれています。
※現在、こちらは個人のお宅となっていますのでマナーは守りましょう

さらに登ります!上る、じゃなくてまさに「登る」。すごい勾配・・・
住民の皆さん、冬場はいったいどうしているんですかっ!?
咬菜園跡から3、4分運動(爆)すると、ようやく出てきた看板。
坂上の標識

ここを右折し、平坦な道を進むと「己巳役海軍戦死碑」に到着します。

◆己巳役(きしのえき)海軍戦死碑◆ 所在地:函館市船見町6-8 交通:電停「大町」徒歩12~15分
こちらの碑は、明治2年(1869)の箱館近辺の海戦でなくなった新政府軍海軍戦没者を祀ったものです。己巳(きし)とは、明治2年の干支です。

案内板。
己巳役海軍戦死碑案内板

こちらが碑です。
己巳役海軍戦死碑

アップで撮ってみました。甲鉄、朝陽の名前が読めると思います。
もう少し詳しく書きますと、甲鉄艦:5名、朝陽艦:61名、春日艦:5名、飛龍艦:1名の、計72名の戦死者の名前が刻まれています。
碑のアップ

先日の記事にも書きましたが、この碑に使われた石は護国神社にある「招魂場」の碑と同じ亀石です。

もうひとつ碑があり、こちらは「箱館在住隊」の慰霊碑です。
箱館在住隊の碑

箱館在住隊とは、義勇軍で、明治元年(1868)に新政府軍の呼びかけにより組織されたものです。
もともとは榎本艦隊の北上による戦火から街を守るために作られたそうですが、その後蝦夷地が戦場になったことで一部の隊士が新政府軍の軍艦に乗組むことになり、かなりの戦死者を出す結果になったとのこと。終戦後は解散したそうです。

新政府軍の慰霊碑や墓所を数箇所回りましたが、いずれも結構草ぼうぼうなんですよ・・・
今となっては勝者も敗者もないものだ。と思い、手を合わせました。

「朝陽」の撃沈について。
某ドラマでは「根っからの戦好きの男」と言われてしまった大鳥圭介・陸軍奉行は、自著「南柯紀行」にはこう書いています:

蟠龍艦の弾七里(七重)浜近くにありし朝陽艦に当り、正に其(の)火薬庫に的中せしを以て、瞬間に破裂し黒鉛山の如くに沸騰せり、予始めは夫れとも知らざりしが、黒鉛晴れて見れば船の全体巳に沈、帆檣(ほばしら)と「ヤリタシ」のみ水上に出でたり、有川辺りより救船を出したる由なれども、乗組没しの者多くは溺死し、魚腹に葬られたり赴きなり、誠に憐れむべき事なり  (「南柯紀行」カッコ内ままこっち)

敵兵が水死して魚に食べられてしまうことを憐れむケースケ。それまでの北関東、会津と転戦する中でも敵味方問わず死傷者の数をきちんと記録していたケースケ。戦好きではない、です、決して。

坂を下りて少し西へと移動し、姿見坂へ行ってみます。

◆箱館病院跡◆ 所在地:函館市弥生町8番地付近 交通:電停「大町」徒歩10分程度
元町にある箱館病院跡、は明治になって移転してからのもので、箱館戦争当時の箱館病院はこのあたりにありました。

箱館病院の院長、高松凌雲先生について。
凌雲先生は、九州・小郡出身。庄屋の三男坊で、すぐ上の兄さんが「古屋佐久左衛門」(衝鋒隊の隊長)です。
古屋さんも医者を目指して江戸に出たそうですが、凌雲先生も江戸、大坂適塾などで西洋医学を学び、その後パリへ留学。そこで「赤十字精神」に触れたそうです。
凌雲先生は箱館医学所(病院)院長就任にあたり、敵味方なく治療、看病することを条件にしたと言われます。
箱館決戦の日、箱館市街を制圧する新政府軍は病院にもなだれ込みますが、凌雲先生がその赤十字の精神を説いて聞かせたところ、薩州隊隊長の山下喜次郎がその精神に感服し、「薩州隊改め」と書いた紙を表に張って出て行ったとのエピソードが残っています。
戦争終結後は出仕の話を断り、東京で病院を開設。貧しい人々を無料で治療する「同愛社」の活動に生涯を費やしたそうです。

現在の様子です。普通の住宅地です。
弥生町8番地付近


函館市内の史跡レポは、あと2、3本でおしまいの予定です。
ガンバル!!

次の記事は→こちら

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2006/07/26(Wed) | チーム箱館追跡ツアー2006 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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