スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | page top↑
チーム箱館追跡ツアー #15 ~高龍寺、称名寺、実行寺
※全体地図はこちらを参照してください。地図上の11番が五稜郭公園です。函館の中心地より北西に位置しています。
※写真は全てクリックすると拡大します。

史跡レポ、函館市街地編のラストです!ふぅ~
でもまだまだ続きます。ようやく半分といったところです(汗)皆様、ついて来て下さいねっ!

船見町はお寺の多い町。魚見坂沿いに仏花屋さんがたくさん並んでいます。

◆高龍寺◆所在地:函館市船見町21-11  交通:電停「どっく前」徒歩10分くらい
北海道最古の寺院だそうです。創建は寛永10年(1633)。
案内板です。
高龍寺案内板

こちらが明治43年(1910)に完成した山門。総欅づくりで、東北以北で最大なのだそうです。
高龍寺山門
本堂です。「なーむー」しているチビッコの後姿が(汗)
高龍寺本堂


高龍寺は箱館戦争当時、箱館病院の分院でした。
帰宅後調べてみたら、当時は大黒町(現、弁天町4番地付近)にあったとのこと・・・ひぇーチェック漏れでした!!
現在の地図で確かめたところ、どうやら弁天台場の目と鼻の先だったと思われます。現在地に移転したのは、明治12年(1879)の函館大火の時だそうです。
明治2年(1869)5月11日、箱館決戦の日。箱館市街になだれ込む新政府軍は箱館病院とその分院である高龍寺にも乱入、箱館病院は高松凌雲先生の機転で何とか事なきを得るも、高龍寺分院では津軽・松前を中心とする新政府軍の兵が傷病兵(会津遊撃隊が中心だったようです)十余名を惨殺したという悲劇が起こりました。惨殺されたのは傷病兵の武装解除がうまく進んでいなかったためとの説もあります。
その供養のために旧会津藩士の有志により明治13年(1880)に建立されたのが「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」です。
「傷心惨目」とは中国の故事で「古戦場を弔う」の意だそうです。
こちらが碑です。本堂の右手にあります。
傷心惨目の碑

碑の案内板。
傷心惨目の碑案内板

碑の隣には、福島県知事の植樹が。知事のお名前、「松平」さんです。
福島県知事による植樹

碑は墓所ではありませんが、手を合わせて隣の称名寺へ。

◆称名寺◆ 所在地:函館市船見町船見町18-14  交通:電停「どっく前」徒歩5分
高龍寺から坂を下って、小学校の角を曲がると右手にあります。

称名寺は浄土宗のお寺で、正保元年(1644)開山と函館市内では高龍寺の次に古いお寺だそうです。
箱館戦争時は新選組の屯所でした。こちらも、明治12年(1879)の函館大火で焼失、現在地に移転しています。移転する前は現在の弥生小学校の場所にありました(記事)。

山門です。色使いが白っぽくて、ちょっとモダンな印象のお寺。
称名寺山門

本堂です。
称名寺本堂

本堂の手前左にあるのが、歳さんと4名の新選組隊士の供養碑です。
土方歳三&新選組隊士供養碑

高幡不動尊(東京都日野市)の過去帳に、ここ称名寺に供養碑を建てたとの記述があるそうですが、称名寺自体火事や移転が相次ぎ、当時の碑は残っていません。現在の碑は昭和48年に建立されたものです
碑の中央に歳さんの戒名「歳進院殿誠山義豊大居士」が刻まれています。「殿」がないとの話もありますが、私が見た限りでは「殿」はあるように見えました(一部削れています)。歳さんの戒名は3つありますが、この戒名が広く知られているものではないかと思います。
ほか、小林幸次郎、粕谷十郎、栗原仙之助、野村義時(利三郎の諱)の名があります。粕谷さんと栗原さんは5月11日の箱館決戦で戦死。野村義時、は野村利三郎のこと。ご存知だと思いますが、宮古湾海戦で戦死しています。

案内板です。
境内案内板

解説のアップ。
供養碑の説明部分(アップ)

案内板にもありますが、こちらには他に高田屋一族の墓所もあります。
明治14年8月の函館新聞には、埋葬されている寺と人数が
・称名寺3名
・実行寺94名
・浄玄寺(現、東本願寺別院。元町)107名
・願乗寺(現、西本願寺函館別院。東川町)54名
との記述がありますが、「箱館戦争(戊辰己巳役)幕軍陣歿者氏名考」によると、称名寺に仮埋葬された3名は中島お父さんと2人の息子さんとのことです。

◆実行寺(じつぎょうじ)◆ 所在地:函館市船見町18-18 交通:電停「どっく前」徒歩6分
こちらのお寺は、日蓮宗。歴史は古く、明暦元年(1655)まで遡るそうです。やはり明治12年(1879)の函館大火で焼失、現在地には明治14年(1881)に移転したそうです。
万延元年(1860)年発行の「官許箱館全図」によれば、当時の実行寺は称名寺の西側、つまり現在の弥生小学校と弥生坂を挟んで向かい側に並ぶような形であったようです。その後移転した現在地でも隣同士というのは、不思議な縁を感じます。

案内板。
実行寺案内板

山門です。教会の門みたいな雰囲気。
実行寺山門

なんでも安政5年(1858)から2年間、ロシア領事館だったらしい。何となく洋風な造りですね。

こちらのお寺は碧血碑と深く関わっています。※詳しくは碧血碑の記事を参照して下さい
激戦地だった矢不来で負傷した会津遊撃隊隊長・諏訪常吉の墓碑があります。ほか、何柱か旧幕軍戦死者の墓碑があります。

墓所の入口にこんな碑を見つけました。気になったので写真を撮りました。「日向君招魂碑」とあります。
日向君招魂碑

調べてみると、白虎隊士中二番隊長・日向内記の招魂碑だそうですが、彼の長男・真寿見の碑ではないかとの説もあるようです。もとは仙台市にあったと刻まれています。
篆額は何故か釜さんです。
篆額by榎本武揚


以上で、一応函館市街地の史跡レポは一旦終了。
次号以降は、函館市街地以外の史跡レポが続きます。頑張って書きますので、お待ち下さい。マニアックな写真も掲載予定です。

次の記事は→こちら



スポンサーサイト
2006/07/30(Sun) | チーム箱館追跡ツアー2006 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
コメント
----

>まきこさん
日向君は人望があったんでしょう、招魂碑はかなり立派でした。
松平知事は容保公のお孫さんなんですかーー!歴史ってすごい!
確か松平アナウンサーも徳川ゆかりの「松平家」出身でしたよね。
by: ままこっち * 2006/08/01 21:57 * URL [ 編集] | page top↑
----

>一人虫さん
えー、更新の件ではご心配をおかけしすみません。だいぶ持ち直してきたので、当初の想定よりは早めに復活できるかもしれません。会社の人も見ているので、事情についてはちょっと書きにくいんです(汗)
本、何だか結構ニーズはありそうなんですが、本にするにはまだまだ調べ方が足りないと思います。本当に本を出すなら、あと2回は函館に行って、文献と現地調査、古地図確認などが必要なのでは。と思います・・・背綴じのペラっとしたもの程度ならできるかもしれませんけれど。
by: ままこっち * 2006/08/01 21:56 * URL [ 編集] | page top↑
----

ままこっちさん、こんばんは。
おつかれさまです。

実行寺に、日向アディダス、じゃなかった日向内記の招魂碑があったなんて、知りませんでした!(福島県生まれの箱館市民の私としては、勉強不足でした・・・汗)
近日中に行ってみようと思います。

県知事だった松平さんは、容保公のお孫さんでしたっけ・・・。
by: まきこ * 2006/07/31 21:32 * URL [ 編集] | page top↑
--無理せずゆっくりとね♪--

ままこっちさん、お疲れ様でした。ずーっと見させていただいてました。
どうか無理をなさらずに、後編を続けてください。気長に待ってますから。
ところでままこっちさん、真面目に「ままこっちと歩く・箱館と共和国の夢写真集(付録・地図)」出しませんか?何だったら、出資金募ったりして。
うーん、だってもったいないんだも~んね~。
by: 一人虫 * 2006/07/31 19:51 * URL [ 編集] | page top↑
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://mamakocchi.blog22.fc2.com/tb.php/725-0042c2c3
前のページ ホームに戻る  次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。