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チーム箱館追跡ツアー #20 ~二股口古戦場跡(上)おさらい編
※道南地区南部の概要図はこちら

今回の箱館ツアーは3泊4日だったので、下記のルート↓を1日で回る破目に陥りました。
二股~稲倉石~館城跡~乙部~江差~折戸浜~松前~知内~木古内~茂辺地・矢不来~富川
朝8時過ぎにホテル出発、函館に戻ったのは夕方6時半でした。
これは私の計画ミス。もう1泊できれば、途中松前に宿を取って大野やら江差やら上ノ国やら江良やらをもっとしっかり回れたのに。
しかし後の祭りでござんす。行かれた方のレポを待ちます。

朝ホテルを出て給油し、早速向かうは激戦地のひとつ、二股口。
戸切地陣屋跡へ行った時と同じように、七重浜から大野バイパス(国道227号)に入り、旧大野町中心部を抜け、市渡交差点(GSが目印)を左折。国道は中山峠を越えて厚沢部、江差方面へ続きます。この道がまさに「二股ルート」。新政府軍の進軍ルートの1つです。ちなみに、函館から江差へ行くのに一番近い(早い)のはこのルートです。(途中寄り道をしなければ、函館→江差で1時間半くらい)

まず、二股口での戦闘についておさらいを。
二股口での戦闘は第一次(明治2年<1869>4月13日~4月14日)、第二次(同4月23日~25日)の2回あります。
※参考文献:「函館戦記(大野右仲、文中「函」)」「蝦夷之夢(今井信郎、文中「蝦」)」「大鳥圭介伝(山崎有信)」「麦叢録(小杉雅之進、文中「麦」)」

明治2年(1869)4月9日、新政府軍の第一陣約1800名が江差の北にある乙部に上陸、蝦夷地攻略を開始
迎え撃つ箱館軍側は、江差・松前駐屯部隊約700名が海岸側を防戦にあたる一方、9日、厚沢部から中山峠を越える大野間道(二股口)に土方歳三を総督とする衝鋒隊、伝習隊を派遣します。
新政府軍側は3手(松前・木古内・大野)に別れて進軍、大野ルートには約500~600名の長州・松前・薩摩を中心とする兵を送り込んできます。一方土方隊は衝鋒隊2小隊、伝習隊1小隊(「蝦」。「大鳥圭介伝」によれば2小隊)に工兵の吉沢勇四郎、フォルタン士官ら計130名と人数はかなり少ないものの、その構成員は
箱館陸軍の中でも歴戦の猛者で、剣豪でもある今井信郎率いる衝鋒隊
こちらも歴戦を重ねている大川正次郎率いる伝習隊、さらには
当代きっての優秀工兵、吉沢勇四郎
といわば「少数ではあるが、精鋭中の精鋭」を集めているのが大きな特徴。かつ、天嶮の地である二股台場山付近は、山の中に急峻な坂道が1本通るだけという、防衛陣地を築くには最上といえる地形。
ここは想像なんですが、ケースケ奉行、歳さんに
・「人数こそ少ないが、その分精鋭を出すから、絶対破られるな」と二股防衛を託した、のでは・・・と思えるほどの布陣なのであります。

9日に五稜郭を出陣した土方隊、その日は市渡に宿陣。歳さんは添役の大島寅雄、大野右仲に決死の覚悟を語り、2人ともそれに同意します(「函」)。
翌日10日、二股に到着した隊は胸壁の構築を開始。フォルタンの指導のもと、昼夜敢行の工事で2日間で16箇所の胸壁を最前線の天狗岳(「蝦」によれば4箇所)、本陣の台場山の2段構えで構築します。
歳さんは基本的には市渡の後方陣地(「沢村家」or市渡稲荷神社のいずれかと思います)にいたようです(「島田魁日記」)。

●第一次二股口攻防戦
敵襲があったのは、4月13日午後3時頃(「蝦」)。天狗岳の前線は早々に破られますが、これも作戦のひとつ?後退すると見せかけて十分に敵を引き付けてから一斉射撃、を繰り返し、土方隊は善戦します。・・・といっても、戦いが始まった頃は大島寅雄は五稜郭に戻っていたし、歳さんは市渡にいたということで、最前線での指揮は大野君が執りました(「函」)
敵兵との距離は、近くて200歩、遠くても500歩と相当な接近戦。その戦いぶりから、敏捷に動くのは長州勢、勇ましく決死で臨んでくるのが薩摩勢だということが分かったとか(「函」)。
日が落ちた後も戦闘は続きます。やがて大雨が降り出しますが、上着を脱いで弾薬が濡れないようにしたり、それでも湿ってしまう雷管を懐で温めながら銃撃を続ける土方隊。その戦いぶりには大野君も相当感心したようで、指揮官連中(大野君は自分で書き残しているので確実。歳さんが含まれているかどうかは、??)で各陣地を回り、兵士を励ましながら「一杯だけ」と言って酒を振舞います(「函」)。

夜半になってもまだ続く戦闘に業を煮やした大野君と歳さんは相談し、決死隊25名を募って川を渡り、敵勢の背後に回りこみます(「函」)。ラッパをふいて乱射したところ奇襲作戦が功を奏し、敵兵は乱走(「蝦」)。
朝7時頃まで続いた戦闘は、新政府軍側の退却をもって一旦終了します。この時撃った弾、3万5000発(「蝦」「麦」)。土方隊のうち一小隊は年末頃に箱館で募った新兵でしたが、調練の賜物か勇猛果敢に戦ったと賞賛を浴びています(「大鳥圭介伝」)。

●第二次二股口攻防戦
4月23日。兵力を増強した新政府軍は再度二股抜きを狙います。
・衆をつくし深霧に乗じ二股に進み来る。吾番兵草木の蔭に潜臥し、敵を四、五間に引付け数十人を狙撃す。これを戦の始にして、敵兵潮のごとく競い来り、(中略)猛烈に発砲なす。しかれどもこれを戊るの兵は戦場に馴れたる精兵なればここに顕れかしこに隠れ千変万化、勇を振って防戦なすこと一昼夜、毫髪の休期なく敵を射撃なせしも我兵疲労を覚えず。(「蝦」)

迎え撃つ箱館軍、兵力を2小隊増強されて合計5小隊での防戦(「函」)。さらに翌24日未明(「北洲新話」丸毛利恒)、伝習士官隊の滝川充太郎率いる2小隊が加わり、激戦が展開されます。
滝川は大目付・滝川播磨守の息子で超ボンボン。見た目は丸顔&くせっ毛でちょっと可愛い感じ(?)ですが性格は父親譲りで勇猛果敢。その戦いぶりは

・敵の撓むのを見、鞭を揚げ接戦の令を伝う。一中隊を円陣に備え、壁を躍り越え、雲霞のごとき敵軍に衝き入る。遠藤銀之助、小田錬次郎、林寅之助等殪死するを顧みず、銃創をもって敵を衝き崩し渓水に追い落とす」(「蝦」)

とまさに猪突猛進。抜刀しての奮戦は新政府軍にダメージを与えますが、この行動は斃れた味方の遺体を毀損される事態を招き、それを見た大川に

・君なんぞ策無きか。徒に殺傷されて軍気を挫くのみ。総督の令あるか、そもそもこれ無きか。

と咎められます(「函」)。滝川は黙り、後悔している様子。それに対し大野君が仲裁に入り、さらに総督である歳さんのとりなしでその場は収まります(「函」)
※一部では遺体を毀損したのが滝川、のように書かれていますが、違います!毀損したのは新政府軍側ですのでお間違いなきよう。。

さらに、有名エピでもある「ラッパが鳴り響き、包囲されたと動揺する兵に一喝する歳さん」、ここに登場。ただし「函館戦記」では、

・吾れ総督の命を奉じ、山巓を陟降して諸営を戒めて曰く、「官軍後ろを絶たば必ず潜行せん。(中略)かつ総督の令有り。退く者は斬る」

と書かれていて、実際には大野君が陣を回って「落ち着け!ワナだ」と兵に伝えたようですね
また、桶に水を汲んで銃身を冷やしながら射撃し続けた(「北洲新話」)のもこの時。4、5発撃つ毎に冷やした、と記述されています。
まさに死力を尽くした激戦。戦いは25日まで続きます。

そして、酒エピはここでも。
・大川正次郎剣を右に提げ左に冷酒を携え笑って兵に対し曰く、汝輩地に座しこの酒を飲み、敵の自ら労し自らたおれるを見物せよ。(以下略)(「蝦」)
歳さんはいつ酒を配ったの??と思ったら、「島田魁日記」にありました。日付からすると第二次の時のようです。
・総督自カラ樽酒ヲ携諸壁シテ兵ニ贈リ謂、汝等ハ歩卒ニシテ能防リ、官軍ハ士ニシテ且衆、吾常ニ賞賛ス(以下略)(「島田魁日記」)

このように勝ち続けた二股防衛陣ですが、海岸線の要衝である矢不来を突破されたことで、退路を絶たれる恐れがあるため、不敗の陣を捨てて撤退することになります。日付は、「大鳥圭介伝」によれば4月30日早暁。撤退時にはしっかり地雷を仕掛けています(「北洲新話」)。

・・・と、前置きはかなり長くなってしまいましたが、エピソードの多い二股攻防戦はこんな感じでしたというまとめです。何せ実際に戦地にいた人たち(大野君、今井さん)が書き残したものがあるので、何が史実だったかは把握しやすいですね。ただ、実際歳さんが何をしていたか、まではあまり記録に残っていないのが残念ですが。

次回こそ二股口の写真を載せます(数枚ですが)のでお待ち下さい~

次の記事は→こちら
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2006/08/27(Sun) | チーム箱館追跡ツアー2006 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
コメント
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>入潮さん
いらっしゃいませ~
入潮さんの言われるとおり、歳三in箱館を詳しく書き記した史料はなかなか見つからないので、彼の行動は周囲の人たちが記録したものから推し量るしかないんですよね。
二股は人数の割り振り方とその構成員を考えると、「数多くは出せないが、精鋭をやる」とのケースケ奉行の思惑を感じずにはいられません。その采配も、現場が強いから全体をとりまとめられればOKといったところだったかもしれませんね。
入潮さんのサイトでもいつもたくさんの情報をいただいており大変勉強になります。これからもよろしくお願いします♪
by: ままこっち * 2006/08/30 23:02 * URL [ 編集] | page top↑
--二股戦--

こちらでは初めまして。緊張しながらお邪魔します。
比較対照、相当なお手間だったと思います。ご多忙中のままこっちさんのこの作業量に、敬服です。

土方の具体的な行動は、新選組外部の方の記録にはほとんど現れないので、自分も追っていて寂しい感じがしています。当事者二人の記録では、今井は土方について「擁護する」と言っているだけですし、大川の「函館戦争記」も名前を挙げるだけで、すげない感じでした。
ただ「脱艦日記」(著者不明、おそらく海軍)には、二股で、「敵勢力が盛んなのを見て、フォルタンがセキナイ台場へ引き揚げることを提案したが、土方は是を用いず勝利を得た」という記述がありました。前線で暴れていたのは伝習隊でしたが。

新選組の内輪と外部の方の記録に温度差がある感じで。土方は外部の方との交流があまりなく、内弁慶じゃないですけど、自分の組織はキッチリ締める、外部は外部に任せる、という枠があったりしたのかな、と。

今井も大川もこの時点で土方の3~4倍の戦闘数を経ていますし、急峻な山岳地形での防衛戦は、藤原の長期戦を経た大川・滝川・吉沢がお手の物だったので、実際は、土方は前線を彼らにお任せしていたのかな、という気がします。
土方は、デキル人には任せる。そういう采配ができる人だったのかな、と思います。
by: 入潮 * 2006/08/29 12:34 * URL [ 編集] | page top↑
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>キトラさん
いやいや~史料が多いのも逆に大変!で、日付が違っていたり主語が不明瞭だったり、で照らし合わせていく作業がちょっとした手間、でした。
丸毛君の「北洲新話」が、結構ハッキリ書いてあってよくまとまっているのと、やはりバイブル、ケースケ先生直筆の「南柯紀行」、この2冊が基本ベースです!
これからもレポ頑張って書きますので、よろしくお願いします。
by: ままこっち * 2006/08/28 23:11 * URL [ 編集] | page top↑
--とっても参考になりました--

非常に力の入った、詳細なまとめを読ませていただきました。
お疲れさまでした。
これはどんな本よりも参考になります。ほんと。
by: キトラ * 2006/08/28 18:43 * URL [ 編集] | page top↑
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