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チーム箱館追跡ツアー #26 ~開陽丸(3)
※道南地区南部の概要図はこちら
※写真は全てクリックすると拡大します。

さらに引き揚げ品のご紹介。武器弾薬編です(涙)

ピストル類。木造部分は朽ちてますが、金属部分はバッチリ残っています。
発掘品・武器編(ピストル)

こちらは刀。同じ金属でもこちらはボロボロ・・・(落涙)金属の材質と鋳造方法によるものなんでしょうか。
発掘品・武器編(刀)

それから、こちらは砲弾類。
使われなかった砲弾

砲弾はとにかくいっぱい!

砲弾はもうとにかくいっぱいあるんですよーーーー!!使わずして沈んだとは、本当に勿体無い勿体無い!!

開陽丸の歴史について。
もともと幕府は最初アメリカに注文しようとしていたんですが、南北戦争のためオランダに発注先を切り替え、文久2年(1862)、最新鋭の軍艦発注と同時に留学生団を送り込みます。そのメンバーの中に、榎本釜次郎、沢太郎左衛門がいました。
完成したのは慶応2年(1866)。10月に処女航海としてオランダを出港し、日本に回航します。南米~インドネシアを経由して慶応3年(1867)3月、横浜に到着
初の実戦は、慶応3年末に起こった江戸・薩摩藩邸焼き討ち事件で捕縛を逃れた者を乗せた船の追撃。その後勃発した鳥羽伏見の戦いでは、兵庫県阿波沖で薩摩藩の「春日」「翔鳳」を砲撃、翔鳳を座礁、自焼させ勝利します。春日は開陽よりも船のスピードが速く、逃げ切りました(その後新政府軍軍艦として箱館まで来ています)。これが開陽が経験した、最初で最後の「戦らしい戦」になろうとは、誰も思っていなかったでしょう・・・
慶応4年(1868)1月8日、鳥羽伏見の陸戦に敗れた徳川慶喜は、艦長の榎本が不在の開陽に乗り込み、副艦長の沢に命じて江戸へ脱出。その後4月11日の無血開城、8月の徳川家駿府移封を見届けた榎本率いる開陽ほか旧幕府海軍艦隊は、8月19日に品川沖を脱走、北へ向かいます。
房総沖で暴風雨に遭うも8月27日、仙台松島湾に到着。大鳥、土方ら旧幕陸軍をはじめ諸隊を収容し、蝦夷地を目指します。
明治元年(1868)10月20日、蝦夷地・鷲ノ木浜へ到着。しばらく停泊した後、箱館入港。舵の修理をして、松前へ向かった陸軍援護のため松前、江差へ向かいます
11月15日、江差沖で土地特有の風浪に見舞われ座礁。10日ほどで沈没となりました。
※鷲ノ木レポはこちら

江差沖での座礁沈没の様子は、いろんな史料に書き残されているのでほぼ正確に状況が分かります。(次回の記事で一部紹介したいと思います)
開陽丸の歴史についてさらに知りたい方はこちらを。

さらに続きます。

次の記事は→こちら


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2006/09/24(Sun) | チーム箱館追跡ツアー2006 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
コメント
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>まきこさん
引き揚げられた砲弾を見て、最初はいちいち「おおー」と驚いていたんですが、あまりの多さに最後はちょっと悲しくなってしまいました・・・
あの砲弾がもうちょっと撃ち込めていたら、箱館政権の夢ももう少し永らえたかもしれないですね(涙)
by: ままこっち * 2006/09/26 09:31 * URL [ 編集] | page top↑
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ままこっちさん。
そうなんですよね・・・未使用のまま沈んだっていうのが、勿体無いし、無念ーー!!
by: まきこ * 2006/09/24 18:43 * URL [ 編集] | page top↑
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