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会津ツアレポ#1 母成峠~東山温泉
 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★ツアレポの前に★☆★☆★☆★☆★☆
今回はダンナ(会津発案者&運転手)、私(ツアー仕切り&手配全般)、チビッコ(4歳、ただ乗り)の3人で行った家族旅行につき、一部「新選組&戊辰戦争&土方歳三」とは無関係の寄り道etcも含まれています。
それについては「ツアーその他」で簡単に報告しますので、ツアレポは原則幕末ネタがらみと思ってくださいまし。
 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★ここまで★☆★☆★☆★☆★☆★☆

会津地区へ行くのは初めてではないけれど、久しぶりなのは確か。
いつもは猪苗代地区へスキーに、ということで歴史を体感することはほとんど無かった。
今回は違う。
会津滞在中の言動がほとんど記されていない、歳さんの軌跡を辿る旅なのだ。

新選組の前身、壬生浪士組が発足してすぐ会津藩の預りになったことから、会津と新選組は切っても切れない縁で結ばれている。
給金も幕臣に取り立てられるまでは会津藩から出ていたわけで、藩主容保公は彼らにとって主君とも言える人だったと思う。
歳さんが会津入りした時は足を負傷しており、会津ではもっぱら怪我の療養につとめていた。
戦線に復帰することができたのは母成峠攻防戦、会津藩の戦況不利が色濃くなってきた時分からである。
かつ彼は会津藩が籠城戦に入る直前、米沢藩に援軍を依頼するため会津を脱している。
結局米沢はその時点で既に恭順に転じており、米沢に入ることすら出来ずにそのまま仙台へ向かい、その後会津に足を踏み入れることはなかった。その観点からすれば、会津は彼にとって通過点かもしれない。

しかし私は単なる通過点ではないと思う。
京都時代には「鬼」と呼ばれた、本来は優しくてナイーブな彼。
その彼が転戦するに従って側近にまで「赤子が慕う慈母の如し」と言わしめるほどに変わった。いや、会津に居た約3ヶ月間で彼は「素の自分」を取り戻してきたのだと思う。
それはやはり会津入りしてすぐ耳にした「近藤斬首」の知らせによるところが大きいはずである。
実際、後で触れるが今回の旅で訪れた近藤勇の墓所で私自身が感じた、「近藤先生からの、歳さんへのメッセージ」。
それがその後の彼のよりどころになったのだ、と信じたい。
だから歳さん、特に鳥羽伏見以降の彼を追うためには、会津での彼を深く知ることが必要なのだ。

そんな思いを胸に、東北道をひた走る。そこから今回の旅が始まる。

★母成峠古戦場★ 最寄り:磐越道磐梯熱海IC~母成グリーンライン途中
母成峠古戦場


古戦場に到着して、改めて驚いた。
母成峠はそこに至る道こそ山道ではあるものの、決して峻険な峠ではなく、どちらかと言えば比較的広い、丘のようなところだった。
視界もほぼ全方位にわたり確保できるし、遠くまで見通せる場所なので、戦には不向きな場所に思える。こんな地形であれば、攻める側は当然横展開してくるだろうし、守る側(会津)はある程度の人数で応戦しなければならない。
一方、会津は四方を山に囲まれた盆地で、藩境は峠が多く兵力を分散せざるを得ない。
限られた兵力のうち母成峠に投入できたのは旧幕軍含めて約800名。対する官軍は約3000名。

母成峠を越えると、猪苗代まで一気に降りることができる。猪苗代も平坦で木々の少ない地で、そこから川を渡るともうすぐ会津若松である。その要所に官軍は二本松方面から攻め入ってきた。
母成を守れるかどうかで会津藩の命運はほぼ決まったようであるが、現代のように通信手段が発達していない当時では、一旦分散した兵力を短時間のうちに再び集結させるのは極めて困難だったと思う。
そんな地形のことも含め、会津が悲劇の末路へと進んでいったのは宿命であったのかもしれない。
母成峠古戦場碑

古戦場碑の側面には、ゆかりの人物の名前が東軍、西軍ともに記されています。
我らが大鳥先生!の名は東軍筆頭。勿論歳さんの名前もありますよっ

★一路、猪苗代へ★
峠を越えると猪苗代湖。平らです。道も土地も大きく開けていて、ここは進軍しやすいだろうと思う。
猪苗代城址は国道を走る限りでは分からなかったけれども、十六橋は旧道?のほうにあるためか国道からはチラッとしか見えなかった。ううー残念、私のナビミスです。
猪苗代湖はかなり大きな湖で、かなり昔(江戸初期とかそういうレベル)から灌漑で土地を開墾していたらしいです。
確かに今でも会津は米どころ。昔の人ってすごい!

★会津若松市内に入る★
国道を走ってそのまま市内へ。さすがに若松は市街地といった雰囲気で、建物もクルマも多い。
途中の道を左に入り、東山方面へ向かう。
宿泊先は東山温泉で、向かう途中にある会津武家屋敷に立ち寄ることにした。

★会津武家屋敷★ 
会津藩家老、西郷頼母の屋敷を再現した展示がメイン、その他中畑陣屋、佐々木只三郎(会津藩出身の旗本で、京都見廻組の組頭、鳥羽伏見で戦死)の墓所などがあります。
見所は:
・昔の武家屋敷ってこうだったのね!の基本を知る
・あの有名な「自刃の間」(頼母の奥さん子供など21人が自刃)を体感
・会津藩ゆかりの人々、新選組関連の展示も勿論あり
・佐々木様のお墓になーむー
と盛りだくさん。早足ではなく、ぜひじっくり鑑賞して下さい。

写真は:佐々木様の墓所※
佐々木只三郎墓所


※お墓の写真って基本撮りたくないのだが、「嫌な気持ち」や「雰囲気」になったら撮影を止める前提で、お墓に「写真を撮らせていただきます」と一礼してから撮りました。

午後4時前、宿に到着。
この日と翌日の宿泊は、東山温泉「不動滝旅館」。
旅館についてのエピソードは、次回のレポへ。
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2005/08/31(Wed) | 会津戊辰戦争ツアー2005 | トラックバック(2) | コメント(0) | page top↑
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母成峠
会津戦争での激戦地の1つ。現在は石碑が立つだけの寂しい場所です。夕暮れ時だったから余計にそう感じたかもしれん。ふむ。夕日に照らされた慰霊碑と眼下に広がるすすきの原を見ていたら、それだけで切なくなってキュンとしてしまいました…。まさしく「兵どもが夢の跡」の Go Plain!【2005/09/27 22:19】
会津武家屋敷
昨日の続きです。清水屋旅館跡の次は、会津武家屋敷に行きました。会津藩家老だった西郷頼母のお屋敷を復元しています。頼母さんと隆盛どんは同じ「西郷」でも全く関係ないと思っていたのですが、ご先祖をたどると繋がるんですね~!びっくり。まぁ幕末当時、本人同士は係わ Go Plain!【2005/09/27 22:18】
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