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白虎隊の装備について。
ふとアクセス解析のぞいて見たら。
何と7(日)・8(月)2日間の合計ユニークアクセス1000件超(驚)!!
いったいどうなっとるんじゃぁ~私は決してジャニヲタではないし、会津ファンではありますがそこまでヲタではないんですけどねー。
キーワード「風林火山」でお越しの方も多いようです。こちらは今後の展開が楽しみ、ですね。

さて。
白虎隊の感想記事のコメントで、きのこさんから白虎隊の装備(史実)についてご質問がありましたので、私の知っている範囲で記事にしたいと思います。
きのこさんの質問の内容は、まとめますと以下の通りです:

1.ドラマでは白虎隊は結構健闘しており、西軍(会津では新政府軍側をこう呼びます)も白虎隊の砲撃や白兵戦でかなり死傷者を出していたようだが、これは史実かどうか。

2.白虎隊の銃砲は旧式で射程が足りず、ほとんど敵にダメージを与えずに退却して全滅(市中二番隊は)したようなイメージがあったが、実際はどうなのか。

※参考文献「会津若松市史」(会津若松市)/「幕末戊辰西南戦争」(学研)/「生存白虎酒井峰治銅像の由来」(白虎隊記念館)

1:戸ノ口原の戦いについて
白虎隊(士中二番隊)が布陣したのは、猪苗代方面から日橋川にかかる「十六橋」を若松方面に渡ったところにある「戸ノ口原」というところです。
ここを破られると本当に城下が目の前に迫ることになる要衝で、会津軍はかねてから陣地構築を行っていました。が、母成峠が突破され、その勢いで十六橋を落す間もなく進攻する西軍に対し、会津軍は必死で防戦につとめます。
で、白虎隊士中二番隊、ですが、戸ノ口原で戦っていたのは彼らだけではなく会津軍と、おそらく母成から退却してきた旧幕軍、仙台兵、二本松兵の一部も一緒に戦っていたと思います。ですのであのシーンで西軍がやられていたのは、白虎隊の働きだけではないと思われます。

2:白虎隊の装備について
もともと会津藩は長沼流軍学を基本としており、兵が精強であったことも影響して西洋式の軍制を取り入れることが遅れていました。軍制改革を実施したのも慶応4年3月になってからですし、この頃には6年間にわたる京都守護職の任で藩政はおおいに逼迫しており、最新式の銃砲を導入することは大変困難だったようです。
実際、薩長を始めとする西軍は装備がよく、この頃後装式のスナイドル銃、スペンサー銃といった最新式の銃を基本装備にしている藩が多い一方、会津軍は前装式のミニエー銃あたりが主力だったようです。
白虎隊の装備としては、酒井峰治の「戊辰戦争実歴談」によれば、やはり前装式で、その中でも型式の古い「ヤーゲル銃」だったようです。
しかし、戦に出る直前に「馬上銃」が支給されたとのことです。馬上銃にはいくつか種類がありますが、見解としては「マンソー銃」ではないかと言われているようです。これらの銃は後装式で、かつ銃自体の重さもヤーゲル銃より軽量なため、腕力のない少年達には扱いやすかったようです。
ですので、まったくの旧式装備でやられっぱなし、ということではなく、それなりに健闘していた可能性は高いと考えられます。
とはいえ、前装式と後装式では銃弾の装填方法が全く違うので、それまで扱ったことのない後装式の銃を持って出たところで使いこなすのは相当難しいと思います。何挺支給されたのかは分かりませんが、全員の手に行き渡っていたかどうか・・・
お城に戻ってからは、多少の新式銃があったようで、それで戦えたと思います。山本八重子もスペンサー銃を担いで活躍してましたし。

・・・とこんな感じのようですね。史料があまりないので、この辺でご勘弁下さい(汗)
もし足りない点、間違いなどありましたらご指摘いただけると幸いです。

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2007/01/09(Tue) | 土方歳三(&旧幕臣ズ) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
コメント
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>きのこさん ※長いです
私も史料をたくさん持っているわけではないので、もう少し調査すれば別の見解になるかもしれませんが、とりあえず今の時点での私の意見としては、きのこさんおっしゃる「白虎隊自体がどのくらい西軍にダメージを与えたのかは分からない」と思います。
それから、「戦争の現実をどうとらえていたのか」についてですが、私個人としては下記のように考えます。
・白虎隊士は皆まだ若く、また上洛して京都での政争やドンパチを経験していた訳ではないので、おそらく「戦」の経験そのものがあまり現実味を持ったものではないのでは。
・とはいえ、実際出陣して血と泥にまみれて戦っていくうちに、だんだん実感が沸いてきたのでは。
「立派に死ぬ」が連呼されたことについて違和感を感じた方も多いようですが、確かにやややり過ぎ、のようにも思うものの、実際のところは史実に近いのではないかと思います。といいますのも、会津藩の教育は非常に厳しく、有名な「什の掟」のほかにも守るべきとされた訓戒がたくさんあり、どれもが厳しい躾+忠君をベースにしたものでした。
子供にまで言わせなくても、とは思いますが、峰治くらいの年の子には、かなり厳しく刷り込んでいた可能性はあるのではないかと思います。
by: ままこっち * 2007/01/10 23:54 * URL [ 編集] | page top↑
--ありがとうございます!--

ままこっちさん、別立てにしてのお答え、有難うございます。つまりは、白虎隊自体がどれほどのダメージを敵に与えたかは定かではないということなんでしょうか??
私がここに違和感を感じたのは、ドラマは史実そのままである必要はないけれど、
・そういう作りの是非がどうこう  ということではなく
・「何故そういう作りにしたのか」 ということ

まさにそういうことです。白虎隊は礼儀等立派な少年だけれど、女性とも口を聞いた事も、旅行したことも、お金を使ったことすらあまりないような母恋しいの子供達として描かれてましたね。私は勝手に、寒くてひもじくて劣勢が切なくて、死ぬべきじゃない少年たちが早まって集団自決したような悲劇イメージで捉えており、だからこそ母の教えを表面上裏切ってまで「生」を選んだ継冶の意味があると(説得力は疑問かも)。ただし、白虎隊も敵を撃ったり殺したりしている(ように描いている)なら、印象は変わります。この子達は「自分が他人を殺した」こと(戦争の現実)に、別な感情を抱かないんだろうか・・・と。
その制作意図はなんなのか。そして史実はどちらに近いのか、他の方の意見も伺ってみたいです。
by: きのこ * 2007/01/10 02:41 * URL [ 編集] | page top↑
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